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毛利秀就は宇部市小野の生まれ?言い伝えの謎解く小冊子発行
2009年11月15日(日)掲載
毛利秀就の出生の謎を著した平山智昭さん
広島城生まれが定説となっている毛利秀就(1595〜1651)について、宇部市の小野郷土史懇話会(五十部敏夫会長)が、現在の宇部市小野地区にあたる旧厚狭郡小野村が出生の地であるとした、「長州藩初代藩主毛利秀就公出生の謎を解くS輝元公側室二の丸様の物語」と題した小冊子を発行した。執筆したのは、会員で元小学校校長の平山智昭さん(79)。物的証拠といえる史跡や新たに見つかった古文書などをもとに、「郷土に言い伝えられている歴史の真実を掘り起こしたい」との信念が筆を取らせた。

毛利秀就は輝元公と側室二の丸夫人との間に生まれた。県文書館所蔵の「毛利三代実録」の文禄4年10月18日の条項に、「輝元公ノ男子。芸州広島ニ生マル。名ヲ松寿丸と称ス。母ハ児玉元良女二ノ丸ト称ス」とある。そこに次の一文が付記されている。「長州厚狭郡小野村ニ生マルト言ウ文書ヤ、二ノ丸夫人ヲ財満新右衛門就久ニ依託シテ、就久ノ領内ノ小野村ニ潜匿(せんとく)シテイタトイウ事ヲ書イタ文書モアルガ、コレハ『虚偽ノ説』ヲ為シテイル」。

しかし、長州藩が天保12(1841)年に各村の実態を調査した風土注進案には、厚狭郡阿武瀬村(のち小野村)に「大照院(秀就の別名)御誕生の御殿跡、御土居、穴蔵四つなどの旧跡あり」と記されている。だが、毛利家は秀就が阿武瀬村で生まれたことを認めようとはせず、地元の人たち以外にその事実は知られていなかった。

平山さんによると、毛利水軍に属し、二の丸夫人の移送を担った相嶋仁右衛門の記録文書「相嶋覚書」には、輝元が側室を持つことに反対した小早川隆景の干渉や正室の嫉妬により、広島城に居づらくなった二の丸夫人を小野村阿武瀬に移したとの記述がある。しかし、ここで秀就を産んだことには触れていない。

郷土史懇話会の史跡マップづくりのため、地区内の史跡を調べていた平山さんは、小野村の代官だった財満就久の屋敷周辺の地名が「御殿(おどえ)」であることに気づく。「どえ」は一段高い場所を指し、それに御の敬称がついていることで、高貴な人間の居場所だったと推測した。

なぜ毛利家は、秀就の広島城誕生説にこだわったのか−。平山さんは「藩祖となる秀就を権威づけるためにも、長門の片田舎の生まれという流寓(りゅうぐう)の地からの人生の出発ということを避けたかったのかもしれない。昔からの地元の言い伝えには半信半疑だったが、少しは歴史の謎が解けた」と話す。

この冊子は300部発行し、関係先へ配った残りの100部があり、増刷も検討するという。1部700円。問い合わせは、市小野ふれあいセンター内の小野郷土史懇話会(рO836・64・2024)へ。
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