絹代の生家、ほぼ特定 海峡見える高台−下関
2009年12月1日(火)掲載
右手前が絹代の生家があったと思われる場所。高い建物が並ぶ現代でもビルの間に海峡が見える。向こう側は北九州市門司の山並み
下関出身の映画女優田中絹代(1909−77年)の生家の場所が「はっきりしない」と、25日付本紙の「田中絹代と下関」第1回で書いたところ、読者からたくさんの情報が寄せられた。
絹代の生家は日和山周辺の「丸山町」であることは明確だが、具体的にどこかは諸説あった。日和山の山頂付近から、ほぼ入江町のほうだ−までさまざま。
絹代顕彰活動に取り組むNPО田中絹代メモリアル協会の会員でもある同市細江町、不動産業、武田修道さん(70)らが、絹代の本籍地「下関市関後地村一九五六地」から土地台帳などを調べ上げたり、関係書類を照合するなどして「ほぼ、ここではないかと推測できる」と絞り込んでいた。
同市丸山町五丁目の一角で、国道9号入江交差点から梅光学院方面に上がる道沿い、入江町バス停手前から西に入る路地を進んで徒歩2分くらいの場所。ちょうど西入江町と丸山町の境界だ。
車一台がやっとの細い道を曲がりながら進み、石段を上がった所が絹代の生家があったと思われる高台。現在暮らしている元会社役員Aさん(85)の話では、52(昭和27)年にAさんの父が土地約660平方メートルを買い、住宅を建てて住むようになった。関門海峡への眺めの良さを気に入って家を建てたと、小さいころに聞かされていた。
Aさんは「田中絹代さんのことは初めて聞いた。おそらく父も、生家があった場所なんて知らなかっただろう。海峡の眺めがいいからとしか聞かされていなかった」という。
敷地が広く、また戦後になって土地台帳の合筆、分筆が重なり、区画整理もあったりして、具体的にどこに絹代の生家が建っていたのか、隣接地(空き地)ではなかったのかなど不明だが、絹代の生家は井戸があったとされており、Aさん方の裏に「昔からあった」という井戸がそのまま残されていた。
Aさん方の庭は海峡に面した場所に配置され、現在は高い建物が眼下の海峡沿いに並んでいてほとんど海峡は見えないが、絹代が暮らしていた大正初期なら、海峡を一望のもとに見渡せる場所。ここに立つと、絹代がスターになった後、何度も家を変えながら、「海の見える場所」にこだわり続けた理由も、十分にうかがえる。
海を見たり潮の香に触れたりすると「下関を思い出す」と語った絹代。生家跡地を特定するより、幼児期の絹代がどのあたりから海峡を見ていたのか。そのことがもっとも女優、絹代の原風景に触れられるのかもしれない。
武田さんが具体的に調べ始めたきっかけは一昨年11月。絹代が1年1学期だけ通っていた王江小学校の校長通信に掲載された「児童氏名田中絹代 出生明治四十二年十一月廿九日 住所関後地村…」。絹代が大阪に行った17(大正6)年の簿冊にあったらしい。武田さんはこれを見て、仕事を生かし、丹念に追跡調査していた。
生家があったと思われる場所に立った武田さんは、「ここからの眺めが昔は見事だったことは十分に想像できる。この眺めの中で絹代さんは育ったと思うと感無量」と話していた。
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